武塙通信vol.12 十二月、東京
1
「ママー、アキの漢字ノート見なかった?」
もうあと五分で家を出なければ絶対に遅刻するという時間なのにまだ歯ブラシをくわえたまま晶がリビングでノートを探している。どうして漢字ノートがソファのクッションの下にあるかもしれないと思うのだろう。ものすごく足が速ければ七時半の電車に間に合うかもしれないけれど、残念ながら母親の私に似てしまった娘の足はちっとも速くない。
「昨日宿題のあとすぐにランドセルにしまったんじゃなかった?」
ぴんときたのかこないのかうーんと首をかしげて洗面所に向かう晶の後ろ姿を見ながら、テーブルの上をざっと片付けた。そろそろ夫が起きてくる時間だ。
「見つからなくてももう出ないと遅刻するよ。あとでママも探しておくからアキはもう学校行きなさい」
声をかけると、晶はひょいと廊下から顔をのぞかせた。
「へへ、玄関にあった」
どこに置いたかわからなくならないよう学校に履いていく革靴の上に昨日寝る前に置いておいたらしい。ランドセルにしまえばいいだけなのに、どうしてわざわざ靴の上に置くのかさっぱりわからないけれど、晶には晶のそういうルールがあるらしかった。
「じゃあいってきまーす」
玄関で声がしたので慌てて見送りに出た。
「コートのボタン、ちゃんと一番下まで閉めて」「そうすると走りにくいんだよね」
一応走る気はあるんだ、とおかしくなる。文句を言いながらも晶はコートのボタンをきちんと全部しめてにっこり笑い、
「パパが起きたらおはようって言っておいて」
と言って少し小さくなったように見える革靴を履いて出て行った。ふと見ると壁に飾ってあるアドベントカレンダーの今日の部分がもう開けられている。いつの間にかちゃっかり取りだしたらしく、今日の分のチョコレートの包みがなくなっていた。
2
仕事帰りにケーキを買ってきて、と妻に頼まれた。
「なんのケーキだ?」
頭の中だけのつもりだったが、声に出ていたらしい。コピー機を使っていた田沼が振り返った。
「横田さん、それ私に聞いてますか?」
「え、あ?ごめん、声に出てた。いや、子どものケーキを買ってきてって頼まれて」
「今の時期、クリスマスケーキならブッシュドノエルとかいちごのデコレーションケーキとか?でもまだクリスマスまで少しあるしホールケーキとはかぎらないかもですね」
田沼は話しながら淡々と数十部の資料を作り上げたらしく、トントンと紙をまとめると、話を切り上げるように僕に聞いた。
「お子さんの好みはありますか?」
「そうか、好みあるよな。もう一度妻に確認してみます。ありがとう」
でも僕には家族のケーキの好みなどぜんぜん想像もつかないのだった。ケーキどころかここ何ヶ月かはろくに会話も出来ていない。学生時代の先輩に誘われて今年から働き始めた設計事務所はなにせ人が少なく激務続きだった。今日こそはケーキを買える時間に帰ろう。保育園のクリスマス発表会のためにこのところ毎日家で練習しているという息子のダンスも見てみたい。
3
十二月の東京タワーは、近くで見上げると何重もの光の輪に包まれているようで、他のどの季節よりも輝いて見えた。
「今年も来たねぇ」
と麻里が隣で感慨深げに言う。来たるべき21世紀にむけて世間では浮かれた明るい話題が多いけれど、実際には長く続く就職氷河期にことごとく惨敗する先輩の姿と来年の自分とを重ねてうんざりする日々だった。
「泣いてるのかと思うくらいぼんやりして見えて面白いね」
両手をコートのポケットにいれながら麻里が言うので、寒い?と聞くと首を振った。
「綺麗で楽しい」
思わず抱きしめると、麻里は笑ってポケットから両手を出し、僕の背中に腕をまわしてくれた。彼女の体はきちんと温かかった。このままこうして二人で生きていきたいなんてことを柄にもなく真剣に僕は思った。
大学進学のタイミングで初めて住んだ東京は、飲み込まれそうなほどにいつも騒がしくて会う人会う人さらりといつも誰かや誰かの知り合いで、つながって噂話を聞いてじゃあ今度あのイベントもおいでよ、とか紹介するねとか、何作ってるの、とか何もかもがただ漂っていて笑って笑って意味もなくまた笑って強い酒をあおり、次々と煙草を吸っていた。そういう場所だった。いつも同じ居酒屋で皆で飲んだくれて芝居だの映画だの音楽だのの話をいつまででもしていた。ある日、朝まで続いた飲み会の終盤、おかしな髪色の男や目の周りが真っ黒なメイクの女が重なるように倒れて丸まって眠っているところをそっとまたいで、僕は外に出た。道路の向こうの川の上にゆっくりと朝日が昇りはじめたところだった。
「横田くん、おはよう」
声をかけられて振り返ると、麻里が短い髪をくしゃくしゃとかきながら寒そうに店から出てきたところだった。
「おはよう。それ水?」
彼女は右手に持っていた半分ほど中身が残ったグラスをすっと僕に渡した。受け取って一口飲んでみるとそれは焼酎のストレートで、喉が一気に熱くなり、僕はたまらず咳き込んだ。
「ふはっ」
と、声をあげて麻里が笑った。恋をしたのはこの時だったのだと今も思う。
「今度、一緒に東京タワーを見に行かない?」
まだ咳き込みながら、涙目で僕はそう聞いたのだった。
4
「漢字テスト百点だった!」
晶が嬉しそうにリビングのテーブルの上に、赤い丸ばかりが並んだテスト用紙を置く。
「すごいじゃない。ご褒美に何食べたい?」
洗面所で手を洗っている晶に聞くと、
「ショートケーキ」
と答えて続けてうがいをし、それから
「やっぱりモンブラン」
と言った。
「じゃあパパが帰ってくるときに頼んでおこう」
「アキがパパにLINEしていい?」
洗面所から戻ってきた晶がテーブルの上の私のスマホで夫にLINEを送る。
「パパ、なんだって?」
キッチンから聞くと
「わかったって。ママはプリンがいいかなって」
パパってほんとよくわかってるね、と言って私たちは笑った。娘の笑顔は夫にとても似ている。私は、幸せなのだと思った。
5
スマホがさっきから何度か振動している。パソコンから顔を上げて確認すると、それは学生時代の友人の訃報だった。「お通夜行くなら一緒に行こう」と短く返信し、あまりにも早すぎる友人の死というものに驚く。ふと、お通夜に麻里は来るだろうかと考え、死んでしまってもう二度と会えない友人と、会おうと思えば会える可能性がまだある麻里とを並べて考えることはおかしいと気がついた。結婚してすぐに相手の仕事の関係で麻里がシンガポールに行き、数年前に帰国したことも聞いたけれど、帰国を祝う仲間内のパーティーに僕は顔を出さなかった。気まずいか気まずくないかと言われれば、気まずい。学生時代の恋愛なんてドラマや映画の真似事程度の軽さだろうと言われればそれまでだが、でもすべて忘れるにはあまりに大切すぎた。約束した場所に麻里は来ないだろうと思う。十年後にまたここへ二人で来ようなんてそんな子供じみた約束などそもそも彼女はもう覚えてもいないかもしれない。あの頃そういう恋愛小説が流行ったのだった。来ないということをわざわざ確認しに行くのは空しいし万が一会えたとして今さら何を話せばいいのかわからない。想像するだけで目眩がしそうなくらい十二月は僕にとって今も鮮やかだ。
6
ベランダのプランターに食べられるものを植えてみたいと言ったのは晶だったけれど、なんだかんだと世話をするのは結局私だった。夕方、バジルやクレソンに水をやる。暖冬のせいなのか、今年はまだたっぷりと葉が生えている。
あの約束を、横田くんは覚えているだろうか。やわやわと光る小さな東京タワーは、ベランダから見える景色の左端にいつでもあった。帰国してすぐに夫とこのマンションの購入を決めた時、決して見えすぎる位置ではないところに東京タワーが見えるということが嬉しかった。大学卒業とほぼ同時に別れて以来、横田君とは一度も会っていないけれどそれでも私はあの約束を忘れたことはなく、一年また一年と気付けば冬を数えていた。この十年のあいだに自分の周りには様々な変化があり、なのに東京タワーはちっとも変わらずいつもそこにあり続けるので安心していくらでも眺めることができた。
「冬の東京タワーって潤んでるみたいに見えない?」
晶を呼んで聞いてみる。
「そう?ママってもしかしていつも悲しい気持ちであっちを見てるんじゃない?」
涼しい顔をしてさらりと言われ、驚いた。
「そんなことないと思うけど」
答えながら、約束の場所へは行かないでおこうと決めた。横田くんが来ても来なくても私はきっとがっかりしてしまう。嘘みたいに楽しかったずっと昔の十二月を今年もまた懐かしむことが出来るというだけで、きっとじゅうぶんなのだ。
すでに登録済みの方は こちら