武塙通信 vol.5 勇敢であれ

私はとんでもない小心者なので、緊張するとすぐにお腹を壊します。(武塙)
武塙麻衣子 2023.05.01
誰でも

 コンビニでお手洗いを使わせてもらい、そのお礼のつもりで買ったホットコーヒーは、一口啜ると思いのほか美味しかった。駐車場に停めた白のクラウンに近寄り、紙コップをふたつまとめて雑に胸の前で抱え、里香は助手席の窓をノックした。

「お義母さん、コーヒーいかがです?」

片手で紙コップを持ち上げて見せると車の中で、邦江が笑ったのが見えた。

「いただくわ。ありがとう」

窓を開けながら、義母は屈託のない笑顔を見せる。邦江が今年で七十八歳になると聞いてもいまいちぴんとこない。いくつになっても少女のように笑う人なのだ。邦江が開けた窓からコーヒーを二つとも渡して運転席側に戻ると、

「洋平のLINEがずっと未読。あの子、夜にはホテルに本当に間に合うのかしらね」

と幾分棒読みな感じで邦江が言った。

「だといいですけど」

と頷き、里香は静かに車を発進させる。

「でもやっと里香ちゃんと一緒に来られて本当に良かった。私、昔から軽井沢が大好きなのよ」

と楽しそうに言って微笑むと、未読のLINEのことはもう忘れたのか、邦江は黙って窓の外を流れる景色を眺めはじめた。紅葉が始まり、わずかに赤く色づいた道を何台かの車が通り過ぎる。義母は出かけるのが好きな人で、年を取ってからも身軽に近くは熱海、遠くはサンフランシスコ、ヨーロッパ在住の友人に会いにフランスやドイツへも出かけたりとフットワークの軽い人だ。

「お義母さん、白糸の滝までもう少しですって」

と里香は言う。ふ、ともむ、ともつかない短い声を発して義母は風になびく前髪をそっと払った。 

 白糸の滝というのは、実際の滝よりも大分前の辺りに駐車場があるのだということを里香はこれまで知らなかった。車を降りると、里香は助手席に回り、邦江のためにドアを開けてやった。

「どうもありがとう」

と言う邦江に頷き、里香は後ろにある青い看板を指した。白糸の滝→150メートルと書かれている。

「ここから滝まで少しかかるみたいですけど、歩けそうですか?」

と聞くと、邦江は笑って頷いた。

「昔、まだ子供の頃の洋平とお父さんと三人でよく来たの」

 里香には、自分の夫である洋平の子供の頃というのがさっぱり想像できなかった。初めて会った時の洋平は、もうちっとも子供ではなかったし、どちらかといえば、会社での仕事はとにかくよく出来るが家の中のこととなると靴下一枚どこにしまってあるのかも知らないような男だった。けれどそういう育て方をした邦江に対して、不思議と嫌な気持ちはしなかった。家の中のことがなんでも独りで出来てしまう男では、一緒に暮らす意味がない、と里香は思っている。去年転んで脚を悪くしてから歩みが少し遅くなった邦江に手を貸しながら、ゆっくりと滝に向かって砂利道を歩いた。いつか、邦江が幼い洋平の手をひいてこの道を歩いたことがあったのだと思うと不思議な気がした。その母の手を、義理の娘とはいえ、今は自分がとって歩いている。血はつながっていなくてもなんとなく近い人のような気がするのだった。それは、邦江が洋平という男を育て、バトンタッチされて里香もまた今、洋平を育てているような気がしているからなのかもしれない。

 今日、洋平は軽井沢へは来ない。ずいぶん前から決まっていたそのことを里香は邦江に伝えるべきか迷い続け、結局言い出せずにここまで来てしまった。こういう優柔不断なところがいけないのかもしれない、と里香は思った。良くないところ。

「里香は、勇敢だよね」

と洋平が言った。いつかの旅先で入った小さな居酒屋で突き出しに出された小鉢を前にしてのことだった。

「なんだかうまくなさそう」

と洋平は小声で言い、割り箸で小鉢の中の肉のようなものをつまんでひっくり返し、顔をゆがめた。どろりと鈍い色をしたそれは確かにお世辞にも美味しそうには見えなかったけれど、二人して手つかずのまま残すことの方が里香には躊躇われた。里香は、

「食べてみないとわからないから」

と言い、口に運んだ。味がどうだったのかはもう覚えていない。ただその時、洋平が目を丸くして「里香は、勇敢だね」と言ったことだけが忘れられないでいる。優柔不断ではあるけれど、私は勇敢なのだ。あの頃も今も。

 白糸の滝というのは、全国でよくその名を聞く。どこで見ても似たようなものだろうと里香は思っていたのだが、初めて見た軽井沢の白糸の滝は、ぐるりと湾曲した広い岩肌から湧き水によって大量に紡ぎ出された白く耀く糸が無数に滝壺へと流れ落ちていくなかなか豪奢なものだった。気のせいかどんどん爽やかな気持ちになってくる。何枚かの写真と動画を撮り

「すごいですね」

と、里香が呟くと、

「でもこれ、実は人工の滝なのよ」

と、邦江が笑った。

「そうなんですか?」

里香が目を丸くすると、邦江は視線を彷徨わせ、

「ごめんなさいね」

とだけ言って滝に背を向け、歩き出した。

「冷えました?ショールありますよ」

鞄からたたんでおいたショールを取り出そうとすると、邦江は振り返って足を止め、小さな声で、けれどまっすぐと里香を見て

「洋平のこと大変申し訳ありませんでした」

と腰を折り、頭を下げた。しらを切るべきだろうか、とその瞬間、里香は思った。仕事ですから来られなくても仕方ないです、とか、急なスケジュール変更なんて慣れてますから、とか。そういうとりあえず邦江を安心させられるような言葉を、何か。けれど、喉がぴたりと閉じてしまったかのように、里香は一言も声が出せなかった。あの晩と同じだ。先週、洋平が自分たちのマンションを出て別の誰かの部屋へ行くために荷物をまとめていた時、里香は部屋の入口に立ったまま、洋平を責めるような言葉を結局一言も口にしなかった。というよりも、出来なかったのだ。罵りたい気持ちは喉に気持ちが悪いほど張り付いてどうしても声にならず、案外私は意気地無しなんだな、と思った。あの時、洋平は何と言ったんだったか。

「こんなことになってしまってすまない」

それとも

「離婚届にサインをしてほしい」

だっただろうか。

「洋平が自分勝手なことを本当にごめんなさい」

と、邦江がもう一度言って里香に近づき、頬に触れたので、里香は初めて自分が泣き出していたことに気が付いた。

「ご存じだったんですか」

里香は、ハンカチで頬を押さえ、まばたきをしながら聞いた。もともと他人ではあるけれど、本棚の引き出しにしまったままのあの離婚届けにサインをすれば、邦江とはやがて会うこともないただの赤の他人に戻ってしまう。里香はこの静かな明るい女性と過ごした長い時間が決して嫌いではなかった。

「少し前に洋平から連絡があったの。里香さんと軽井沢へ旅行して来るって言ったら驚いてた」

里香はため息をつきたい気持ちだった。義母も義母だ。知っているなら、洋平が遅れて来るかもという下手な芝居になど付き合わず、普通にしてくれていたら良かったのに。洋平がぎりぎりで来られなくなるという演出のため、ホテルの食事もベッドもすべて一人分多く予約してしまっていた。こんなことなら最初から自分と義母の女二人分だけで良かったではないか。さて、とにかくこれからどうしたらいいだろうと考えた時、背中側で流れ落ちていく細い無数の糸のような水の音が、やけにくっきりと聞こえた。それはすべてなぜか「勇敢であれ」という声となって里香を包んだ。里香は、振り向かないまま眼をつむり、大きく深呼吸をした。エールは十分届いたような気になった。

「お義母さん、ホテルの前にジョン・レノンが好きだったっていうパン屋さんにも行きましょうか」

声をかけると、寒そうにうつむいていた義母はぱっと顔を上げて、

「ええ、里香ちゃん」

と笑ったのだった。

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