ホタルイカの身投げ

この小説を書いている間ホタルイカの素干しを食べたくて仕方なかったのですが、たまたま連れて行ってもらった富山料理のお店で炙ることが出来ました。(武塙)
武塙麻衣子 2023.07.01
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 すれ違いざまに聞こえたカロン、というその小さな音は由香里にはずいぶんなじみ深いものだった。狭い夜の歩道橋ですれ違っただけの見ず知らずの女の子を振り返り、階段を上っていく彼女を見る。今の音が空耳ではなく彼女の鞄の中から聞こえてきたのであれば、私たちは仲間も同然だと由香里は思った。かといって声をかけたり自己紹介をしたりそんなことはお互いちっとも望んでいない。ただ同じ種類の音を鞄の中で響かせているというだけだ。

 
 立原由香里は家族に隠れてもう長いこと飲酒していた。初めは自分のことをただの酒好きだと思っていたので夕食時に家族と飲む一、二杯のビールでは足りず、食後にも堂々と缶酎ハイを飲んだ。それでもまだ足りず家族がそれぞれ寝た後にあらためて一人で飲みなおすようになり、その頃から後ろめたさを感じるようになった。すると家族共用の冷蔵庫の中に自分だけが飲む酒を大量に冷やしておくということが出来なくなり、自室でこっそりと飲む酒はやがて冷えていなくても構わないもの中心になった。赤ワインならば常温で良いし、焼酎やウィスキーにも氷をいくつか入れるだけで飲めるので冷蔵庫で瓶そのものを冷やしておかずに済んだ。美味しいとか楽しいということではちっともなく、飲んで意識を失い眠ってしまえばそれだけ確実に時間が経つということだけが由香里を安心させた。毎日続く単調な仕事にも不誠実な恋人にもまったくもって膿んでいた。飲んで寝てしまえば、LINEの返信を待つこともない。厄介なのは酒の空き瓶だった。瓶というのは地域で決められた日にしか回収されない。初めは、こんなにたっぷり入っているのだからちびちび飲んでいれば減り具合など家族にはわからないだろうと思っていたワインも焼酎もジンもウォッカもラムもウィスキーもあっという間になくなっていった。父親が夕食時に飲むのはほぼいつも350mlの缶ビール一本で、母は付き合い程度や料理に合わせてなんとなくワインを嗜む程度であり、大学生の妹は体質的にまったく飲まない。そうなるとわずか一週間のあいだに空き瓶が何本もたまるというのはとても不自然で、由香里の家ではあり得ないことだった。仕方なく自分の部屋のクローゼットの奥に買ってきた新しい酒瓶と飲み干した瓶とをとりあえず隠してなんとかタイミングを見つけて片付けようとしたものの追い付かず、由香里が空ける瓶は増える一方だった。曜日ごとに家の近くのゴミ集積所まで捨てに行くのは、もう何十年も母親の仕事だったので 「私、ゴミ捨てやるよ。仕事行くときに出すよ」 と言ってはみたものの、隠しておいた空き瓶をこっそり毎週家のゴミに混ぜるのもそれはそれで面倒なことだった。  
 

 新卒で入った会社の仕事は、初めこそきつかったけれど年数を重ねる内にやるべきことだけを淡々とこなせるようになった。新薬開発研究会社のMRという職種は、学生時代によく見かけた体育会系の人たちの集まりのようで、彼らは口を揃えて 「これでも昔に比べたら接待も減ったし今なんてほんと全っ然楽」 と言った。研究開発費が多い大手企業に所属さえしていていれば、食いっぱぐれることはないだろうというのがほとんどの人の考えのようだった。社用車の中ではさすがに酒は飲めなかった。飲酒運転で捕まるのは嫌だ。だから、由香里は仕事が終わると慌ててスーパーかコンビニエンスストアに向かって酒を買ったが、クローゼットの中のどの瓶に何がどのくらい残っているかなどがもうよくわからなくなっていた。何を飲みたいわけでもなく、ただ度数があれば良かった。クローゼットの奥はやがて瓶でぎっしりと埋まり、それらを捨てるのはもう容易ではなかった。瓶問題にすっかり疲れてしまい、ある時から由香里は瓶の酒を買うことをやめた。缶ならば鞄に隠しておけばすぐに捨てることができる。外を歩けばいくらでも缶専用のゴミ箱が見つかるし、飲みきれなくて流し捨てることにもそう罪悪感は伴わなかった。残業で帰りが遅くなり、もう誰も起きていないだろうという日の夜、最寄駅から家まで川べりの道を二十分ほど歩きながら次々と空ける缶たちは、由香里の鞄の中でぶつかってカロンカロンといつも涼しげな音を立てていた。

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