武塙通信 vol.4 灯台
その灯台は、東京にある私と良平の家からはバスと電車と飛行機とフェリーとレンタカーもしくは一日に二本しかない島のバスを乗り継いだ地点から更にしばらく山道を自力で歩かなければたどり着けない場所にあった。数日前、台所で壁のカレンダーについた印を見ながら、どこへ行こうかなと考えていると
「今回は島に行かない?」
という良平の楽しそうな声が聞こえたので、そうすることにした。フェリーを降りてすぐにレンタカーの手続きを済ませ、今日泊まる予定の宿に荷物ひとつだけを先に置かせてもらってからもう一度車に乗り込み、私はフェリーの発着所でもらった島の地図を広げてみた。灯台が島のちょうど反対側あたりにあるようだった。
「行ってみる?」
と、隣で良平が言った。私たちは端っこにあるものがやたらと好きだった。休みの度に多摩川の河口付近をただ見に行って帰ってきたり、緩やかな丘の斜面を埋め尽くすようにして何十棟も建てられたまるでひとつの町のようになっている古い団地の一番端にある建物(壁面に大きく1の48と書かれていた)の前のベンチに座って近くの惣菜店で買ってきたおにぎりを食べながらお茶を飲んだりした。あの頃はまるで時間が永遠にあるように思っていたから、ただなんでもないものの端っこを二人で見に行くということが楽しくて仕方なかった。今は、年に一度だけだ。
地図を広げたままダッシュボードに置き、
「前はどこの灯台を見たっけ」
と聞くと、
「愛媛だね」
とあっさり良平が答えた。私たちはとにかくよく旅行をした。「愛媛」と私はくり返す。「そう。伊方のすごく細い半島の先にひとつあったじゃない」 私が適当に置いた地図の南北を確かめるように眺めながら良平が言った。伊方の灯台へ向かう細い道を車で走っていた時、突然片側に柔らかな雨が降り始め、もう片側にはぴかぴかと日が照りつけるという不思議な光景を見て二人で歓声をあげたのだ。
「あれは境目だったよね」と言うと、良平はまだ地図を見ながら「うん」と答えた。何と何の境目だったかということをこの人は本当に覚えているだろうか。「ここからそんなに遠くないみたいだから、百合子が行きたいならこの灯台も行ってみようか」
と言って地図から顔を上げた良平の頬はあの頃と変わらずつるりとしている。
灯台というのは、三百六十五日ずっと風が強い場所なのだろうか。他には一台も車のいない駐車場とおぼしき空き地に車を止めて外に出ると、海まではまだだいぶ距離がありそうな山道の途中だというのにすでにもう潮の匂いが強くきつく吹いて全身にまとわりついた。申し訳程度の金網にくくりつけられてすっかり錆びている看板を見ると、青いペンキで管理所の電話番号が書かれている。「盗難等にくれぐれもご注意ください」とも書いてあった。いつ来るかもわからない車をここで待ち伏せして襲うような暇な強盗が出るのだろうか。それともどこか遠くからずっと見張っているのだろうか。私は、宿に荷物を置いてきていたので、肩からかける薄いトートバッグと水のペットボトルだけを持っていた。良平は、と振り返ると手ぶらだった。いつものようにカメラと財布をズボンのポケットに突っ込んでいるだけらしい。白いシャツの裾が風にはためいている。「ちょっと歩くみたいだね。靴、大丈夫?」と聞く良平に頷き返し、誰もいない遊歩道を歩き出した。子どもの字で書かれた「灯台まであと二十分」「灯台まで十五分です」と、少しずつ到着までの時間が短くなっていく看板がところどころ地面に刺さっているのを見ながら歩いて行くのは、まるで「注文の多い料理店」のようだった。特に何をしろと命令されているわけでもないのに、なぜか威圧感があり、まるで「本当にあなたはそこへ行くのか」と問われているような落ち着かない気分になった。道の両側からせり出すように生える灌木と土の濃い匂いがする林の中の道をたっぷり三十分はかかって抜けると、その先に突然ぽっかりと丸い丘があり、頂上に白い古い灯台があった。
「ここ、前に何かの映画で使われてたよね」
と息一つ切らさずに良平が目を細めて言う。
「そういうことはよく覚えてるんだね」
と私は答える。スニーカーではない靴での三十分の山道はなかなか厳しかった。歩くうちにすっかり暑くなってしまい、私は着ていたコートを脱いでマフラーも外し、片手に持って歩いていた。ここから更に丘を登らなければ灯台にはたどり着かない。この頃は、腰や膝やそれ以外にもあちこちが痛むしすぐに息が上がるのでこんなに長く歩くのは久しぶりのことだった。ごろごろした石段を手すりを使って一歩一歩ゆっくりと昇り、やっとの思いでたどりついた灯台の入口には鍵がかかっていた。ドアノブを回すとがちゃりと冷たい金属がひっかかる音がする。雲一つ無い空にはひたすら強い風が吹き、ごうごうという音以外は何も聞こえなかった。柵のすぐ向こうは切り立った崖で、そのずっと下の方に波がスローモーションのように打ち寄せては次々と順に砕けていく。こんなに天気が良いというのにここには本当に誰もいない。
「見てよ、百合子。雲がみんな風で流されちゃってる」
と良平が大きく伸びをして言い、振り返って笑う。
「楽しいね」
気持ちの良さそうな良平を見て、今年も私は泣きたいほど嬉しくなった。一年に一度。柵から離れ、良平からも離れてベンチの方へと一人で歩きながら、もし自分が死ぬのなら、その前にもう一度ここに来ようと思った。いつかふいに「もう死んでしまいたい」と思った時、すべての乗り物にもう一度一人で乗り、山道を三十分かけて歩き、この灯台まで戻ってくるその何時間もの間に、死にたい気持ちがどこかでふっとほどけるかもしれない。ほどけなければその時はその時だけれど、この精巧で美しいレース編みのような白い波を見下ろしながら「こんな遠いところまでわざわざ来るなんて一体何をしているんだか」と一瞬でも思ったら、その時は死ぬのをやめて、島の美味しい魚とかお酒とかそういうものを口にして、清潔な寝具で一晩眠り、次の日にまたフェリーと飛行機と電車とバスを乗り継いで、日常へ戻るのも良いかもしれない。そう考えたら心の底から幸せな気持ちになった。自分の死に場所を見つけたのだと思うと誇らしかった。いつか今よりもっと年を取っていよいよ思うように体が動かなくなり、病院のベッドで一人で死ぬことになるかもしれなくても、それでも私の心は必ずこの灯台を見るためだけにきっとここへ戻ってくるだろう。私は目を閉じて深呼吸をした。
「良ちゃん、その時は迎えに来てね。一緒にまた来よう」
良平の答えはもう聞こえてこなかった。風が一段と強い。振り返らなくてももう良平がどこにもいないことはわかっていた。夫のつるりとした頬や手首のすべすべとでっぱった骨、笑い声、硬い髪、細長い足。たくさん一緒に出かけた場所や二人で見た昔の端っこの記憶。いつまで私は持っていられるだろう。今日は、夫の二十四回目の命日だ。
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