武塙通信 vol.2
蜘蛛を逃がす

小さい蜘蛛は可愛いけれど大きい蜘蛛は怖いです。新宿の中華料理店で一度タランチュラ食べる?と勧められました。
武塙麻衣子 2023.02.01
誰でも

 蜘蛛を逃がす

 何日か前からその気配はあった。洗面所で洗濯物籠を流しの下から取り出す時、壁のポールにかけてある足拭きマットを床に敷く時、視線と言うには大袈裟な、でも確かに自分以外の何かがどこかからこちらを見ている、と綾は思った。だからその夜、歯磨きをしている時についに姿をあらわしたのがとても小さな、しかしやけにはっきりとした立派な足を持った蜘蛛だったことに綾は驚いた。こんな小さな生き物にずっと見られていたのか。

「ねぇ、蜘蛛。見た?」

寝室のテレビで報道ステーションを見ている夫を廊下から覗き込み、歯ブラシをくわえたまま声をかけると、

「うん。二、三日前からいるよね」

と浩介はこともなげに頷いた。なんだ、知っていたのかと驚いた。知っていたなら一言教えてくれたら良かったのに、と一瞬不満に思い、それから浩介が洗面所に現れた蜘蛛を黙ってさっさと殺してしまうような男でなくて良かったと思った。洗面所に戻って口をゆすぎ、蜘蛛を驚かさないようにそっとコップを戻した。

「猫たちに気をつけるんだよ」

と言って、綾は洗面所の戸を閉めた。この家には、綾と浩介の他に、のっぴきとトゥタロウという二匹の猫がいる。猫たちはもうとっくに各々のお気に入りの場所でそれぞれ気ままに寝支度をしていた。この家の中で居場所がなんとなく定まらないのは、多分この小さな蜘蛛だけだ。

「好きなだけいていいから」

と、閉めた洗面所の戸に向かって綾は呟いた。

「何か言った?」

と寝室の浩介が返事をする。綾は「ううん」と首を振った。浩介と、蜘蛛の話はあまりしたくなかった。というよりも蜘蛛に話しかけていると知られたくなかった。

 今日は、浩介が一泊の出張で仙台へ行ったので、家の中が一日中なんとなくがらんとしていた。自分一人分の食事の支度をするのも億劫で、綾は夕方、仕事を終えた後、猫たちにだけごはんを食べさせ、一人で近所の店に飲みに行くことにした。猫たちが食べ終えた青と緑色のお揃いの皿をゆすいでいると、流し台のわきを蜘蛛が横切るのが見えた。

「こんなところにいると危ないよ」

とつい話しかけ、通じるはずがないのに、と馬鹿らしくなった。

 駅前の立ち飲み屋の戸をがらりと開けると、

「いらっしゃい」

とカウンターの向こうで大将が小さく頷いた。綾は右肩にかけていた小さな鞄をカウンター下の台に押し込みながら、

「ほうじ茶割りと、ヒラマサの刺身をください」

と言う。

「急に寒くなったね」

と大将が首を振り、

「はい、おつかれさん」

とほうじ茶割りのグラスをカウンターに乗せた。頭を軽く下げて受け取り、一口飲む。この店の少し強めの酒が綾はとても好きだ。しばらく時間が経つと、店内はそこそこ混み始める。客はみんなこの辺りに住む人たちばかりだ。ほとんどの人があまり喋らず、とは言えお互いの顔はなんとなく認識していて、頭を下げるだけの挨拶をしたり、少しカウンターを詰めて新しく来た人に席を作ってやったり、七味唐辛子を回してくれたりする。もう少し社交的な場合は「これ良かったらまだ箸つけてないから食べる?」と里芋の煮っころがしをひとつ分けてくれたり「赤兎馬、好き?ボトル入れてるけど一杯飲む?」と言ったりする。どれも決してしつこいやりとりにはならない。古い大衆酒場のそういうところも綾は気に入っていた。女性一人客をあからさまにちやほやするような店も中にはあるだろうが、少なくともこの店はそうではないところがいい。みんな、単純に少しの酒と美味しいものと酒場の会話然としたわずかなやりとりを一日の終わりに各々の体に染みこませたいだけなのだ。しかしそれは乱暴な言い方をすれば「寂しい」ということなのだと綾は思っている。

 夜半、洗面所で歯を磨いていると蜘蛛がつつと天井から降りてきた。

「危ないよ」

壁に沿ってならまだしも、周りに何もないところでふわふわ揺れているなど、猫たちの格好の餌食になってしまう。

「あっち側に寄って」

と糸をたぐろうとすると、蜘蛛は慌てて飛び跳ね、上の方へ逃げていった。そうか、蜘蛛は空中でも跳ねることが出来るのか、と驚く。だったら猫たちから逃げることも案外難しくないのかもしれない。トゥタロウは猫らしく動きが早いが、のっぴきはずいぶんぼんやりとしている子だ。動く蜘蛛などを見たらもしかすると逆にのっぴきの方が怖がりそうだ。口をゆすぎ、白い洗面台に向かって水を吐いた。回転するようにして排水溝にすいこまれていく泡と水を見るのが苦手なので、綾は急いで蛇口をひねり、手に持っていた歯ブラシを洗った。斜め上からはまだ視線を感じる。蜘蛛に名前を付けるというのはありなんだろうか、と綾は思った。そうでなければなんだか落ち着かない。けれど酒場とは違い、意思の疎通さえ図れそうにない相手に名前など必要だろうか。蜘蛛は同じ場所からじっと綾を見続けている。

「あなたこの家で何を食べてるの?」

綾はため息をついて目線をあげ、呟いた。もちろん返事などない。蜘蛛よりももっと体の小さい虫か何かだろうか?十一月も後半になり、家の中も洗面所や玄関はしんと冷たく感じるようになった。蜘蛛が捕食できる虫などこの家の中に満足にいるのだろうか。綾は、次第に自分の頭の中が蜘蛛でいっぱいになっていくことにまだ気が付いていなかった。

 翌朝、洗面所の隅で蜘蛛の様子がおかしかった。初めて見た時は細い足を四方八方に美しく伸ばしていたのに、今はそれらをすべて体に向かってきゅっと丸め込んでいる。

「どうしたの」

と近寄ると、蜘蛛の体がほんの少しぴくりと動いた。餌が足りないのかもしれない。突然、恐怖か怒りのような物がこみ上げ、綾は叫び出しそうになるのをかろうじてこらえ、蜘蛛の方へ左手をのばした。

 週末、浩介の実家へ顔を出した。実家の近くの美術館で浩介が観たい展示があったので、デパ地下で買った焼き菓子を手土産に実家へ寄り、一日車を貸してもらうことになっていた。玄関先で車の鍵を受け取ると足早に浩介は車に乗り込んだが、綾はなんとなく義母と話しながらガレージまでの階段をのんびりと降りた。

「じゃあ、夕方待ってるわね」

と言って、義母が助手席のドアを開けようとしてくれた時、二人とも同時に

「あ」

と声をあげた。ドアには蜘蛛がぶら下がっていた。ただし、それは生きてはいないようだった。かさりと体を丸め、揺れているのは風のせいだった。振り返り、

「ママ、蜘蛛」

と綾が言うと、義母は目を離さないまま小さな声で

「この子、ずっと家のトイレにいた子」

と言った。それから

「しばらく見なかったの。こんなところにいたのね」

と手を伸ばし、その小さな蜘蛛の身体を手のひらにそっとのせた。

「綾ちゃん、遅くなるよ。もう行こう」

と浩介が運転席から顔を覗かせ、綾は頷いた。片手で蜘蛛を包み込み、もう片方の手を自分たちに向かって振る義母が窓の後ろで小さくなった。

 その日の夕食は、綾の大好きなグラタンドフィノワだった。義母の作る料理の中で、綾はこれが一番気に入っている。おかわりもして「美味しいです」と言うと、義母は「良かった」と微笑んだ。

食事の片付けのあと、テーブルにワインと果物だけを残し、すっと立って行った義母がピアノの上から小さな陶器の器を持って戻ってきた。

「どうしたってだめなのね。家の中の子は外に出たら生きられないの」

義母はうっすらと目を赤くしながらそう言うと、綾に器を差し出して見せた。白い綿をつめた中に、足が一本とれ、乾燥してすっかり縮んでしまった蜘蛛が入っていた。綾は、ソファに腰掛けてテレビのニュースを眺めている義父と浩介に目をやったけれど、彼らは死んだ足のない蜘蛛になどまったく興味がないようだった。それはそうかもしれない。でも何故、興味がないのか綾にはわからなかった。それから、あの朝、自分がベランダに出してしまった蜘蛛のことを綾は思い出した。洗面所で服を脱ぐ時、顔を洗っている時、目が覚めてぼんやりと寝室の天井のすみを見ている時。蜘蛛は、綾に向かっていつもゆらりと光る身体を垂らしていた。それは例えようもないほど美しいのと同時に、綾にとってどうしようもなく疎ましい存在だった。いつの間にか常に蜘蛛を気にかけ、近くにいることが当たり前になり、そしていつか家の中で動かなくなったその蜘蛛を見つけることには耐えられそうにない、と綾はあの時突然思った。その直前まで愛情のようなものさえ蜘蛛に対して感じ始めていたというのに、もう一刻も早く目の前から蜘蛛に消えて欲しかった。ここにいては駄目になる。あなたもそれから多分私も。綾の手のひらからベランダに降ろされた蜘蛛は、しばらく動かずにいた後、かさかさっとプランターの裏に回り込み、そして二度と綾の前に現れなかった。

 義母が差し出した陶器の容れ物を両手で受け取ると、綾は中のもう動かない蜘蛛をじっと見て、

「可愛いですね」

と言った。そして、義母はいつどんな風にこの蜘蛛を外へ逃がしたのだろうか、と考えた。

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